「私は美しい」と言えなくても、いい
「私は美しい」と、鏡に言ってみたけれど
自己肯定感を上げる方法、として、こんなワークを見たことがある。鏡に向かって「私は美しい」と言う。毎朝アファメーションする。
試しに、やってみた。鏡の前で「私は美しい」と口に出す。……なんとも言えない、こそばゆい気持ちになった。言葉と実感が、まるで噛み合わない。「本当かな」という声がすぐに湧いてきて、むしろ言う前より、自分が美しくない気がしてきた。
やっぱり私は、自分を美しいと思えないんだ。そう結論しかけて——でも、待ってほしい。「私は美しい」と言い切れることが、本当にゴールなんだろうか。
断言は、ゴールではない
このシリーズは、一度も「自分を美しいと断言しましょう」とは言ってこなかった。
理由がある。「私は美しい」と胸を張って言える状態は、いわば自己陶酔で、ときに危うい。それは満点の自己評価であり、実はまた一つの採点表だ。しかも高得点の。そこを目指すと、「そう思えない自分」がまた不合格になる。「大好き」を目指して空回りしたのと、同じ構造だ。断言できないことは、失敗ではない。
このメディアが描く美しさは、断言の中にはない。「悪くないな」の中にある。今の自分の延長線上にいる、少しだけ機嫌のいい自分。「私は美しい!」と言い切れなくても、「まあ、悪くないな」と思えれば、それで十分に足りている。むしろ、そのくらいの温度のほうが、ずっと自然で、続く。
言えなくても、纏える
大事なことを、はっきり言っておきたい。
「私は美しい」と言えるかどうかと、美しさを纏っているかどうかは、別のことだ。 あの傘の先輩は、たぶん自分を美しいと断言してはいなかった。カフェで夢中だった人も、機嫌のいい先輩も、自分を「美しい」と思っていたかは分からない。でも、彼女たちは美しかった。美しさは、自己申告ではなく、態度から滲むものだからだ。
だから、あなたが自分を美しいと言い切れなくても、まったく問題ない。自分を雑に扱わず、機嫌を整え、丁寧に過ごしていれば、あなたはもう纏っている。それを言葉で認定する必要はない。認定式は、いらない。空気は、宣言の有無に関係なく、勝手に滲む。
「わからない」でいい
「自分が美しいかどうか、正直わからない」。この状態を、否定しなくていい。
むしろ「わからない」は、健全な地点だと思う。「美しくない」と断言しているわけでもなく、「美しい」と背伸びしているわけでもない。ただ、採点をやめて、宙ぶらりんのまま自分と一緒にいる。この宙ぶらりんこそ、採点表から降りた人の、自然な立ち位置だ。答えを出さなくていい。美しいか美しくないか、という問い自体を、少し手放していい。
問いを手放した人のほうが、たいてい、美しい。判定に必死な人の空気は張り詰めていて、判定を手放した人の空気は、ゆるんでいるから。
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認定式を、やめる
「私は美しい」と言えなくていい。断言はゴールではないし、美しさは自己申告ではなく態度から滲むものだ。
もし今まで、「自分を美しいと思えるようにならなきゃ」と、どこかで自分を追い立てていたなら、その宿題を、そっと下ろしていい。
思えなくていい。言えなくていい。ただ、自分を雑に扱わないでいる。それだけで、あなたは、断言できないまま、ちゃんと纏っている。認定式がなくても、公演は、もう始まっている。
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