何も足していないのに、美しい日がある
何も特別なことをしていないのに、なぜか、いい感じの日がある。
新しい服を買ったわけでも、気合を入れてメイクをしたわけでもない。いつものユニクロのニットに、いつものデニム。化粧も、時短のキャンメイク。それなのに、その日は、鏡に映る自分が、なんだか悪くなくて、一日、少しだけ機嫌がよかった。 「何も、していないのに」。
反対に、新しいワンピースを着て、丁寧に化粧をした日に、なぜか、しっくりこないこともある。あんなに足したのに、ときめかない。この差は、いったい、何なのだろう。何も足していないのに美しい日の正体を、突き止めてみたい。
私たちは、美しさを「足し算」で考えてきた
まず、これまでの前提を、振り返ってみたい。私たちは長いあいだ、美しさを、足し算で考えてきた。
もっといい化粧品を足す。新しい服を足す。ダイエットで、努力を足す。スキンケアを、丁寧に足す。——「美しくなる」とは、何かを足していくことだ、と教わってきた。そして、それは、間違いではない。好きなリップを足す時間は、楽しい。新しい服で、気分が上がる日もある。自分に何かを足して、機嫌を上向きにするのは、立派な、自分を大切にする行為だ。それを、否定する必要は、まったくない。
PRIELLEも、「足す」ことの豊かさを、ずっと伝えてきた。自分のために、何かを足す。それは、自己満足であり、自分へのご褒美だ。だから、足し算そのものは、悪くない。むしろ、いいものだ。
でも——足し算だけでは、説明できない日がある。何も足していないのに、美しい日。逆に、たくさん足したのに、ときめかない日。この二つの存在が、「美しさ=足し算」という前提の、外側を、指し示している。
足し算では、説明できない日がある
何も足していないのに美しい日。それは、足し算の理屈では、絶対に説明できない。
だって、足したものは、何もないのだ。服も、メイクも、いつも通り。むしろ、いつもより手を抜いていることさえある。それなのに、美しい。足し算が美しさのすべてなら、こんな日は、起こりえないはずだ。何も足していないのだから、いつも通り、もしくは、いつも以下でなければ、おかしい。
でも、実際には、こういう日は、ある。あなたにも、思い当たるはずだ。そして、この日の存在こそが、美しさが、足したものの総量では決まらない、という何よりの証拠なのだ。足したものではなく、何か別のものが、その日のあなたを、美しくしていた。では、その「別のもの」とは、何か。
答えは、これまでの記事で、ずっと語ってきたことの中に、ある。その日、変わっていたのは、あなたが足したものではなく、あなたが自分に向けていた、態度のほうだ。
その日、あなたは自分を、認めていた
何も足していないのに美しい日。その日、あなたの中で起きていたことを、思い出してみてほしい。
たぶん、その日は、朝から、少しだけ機嫌がよかった。鏡を見て「悪くないな」と思えた。自分を、あまり責めていなかった。何かいいことがあったのかもしれないし、ただ、よく眠れただけかもしれない。理由はどうあれ、その日、あなたは、自分を、認めていた。減点する採点表を、握っていなかった。足したものは何もないけれど、自分への態度が、あたたかかった。それが、纏う空気を変え、あなたを美しくしていた。
逆に、たくさん足したのに、ときめかなかった日。その日、あなたは、新しい服を着ながら、心の中で、自分を採点していたのではないだろうか。「これで、少しはマシに見えるかな」「でも、やっぱり脚が」。足す動機が、「今の自分では足りないから」という、自己否定だったとき、どれだけ足しても、ときめきは宿らない。足したものの上に、自分への冷たい態度が乗っかって、空気を、硬くしてしまう。
つまり、こういうことだ。美しさを決めているのは、足したものの量ではなく、その日、あなたが自分をどう扱っていたか。何も足していない日でも、自分を認めていれば、美しい。たくさん足した日でも、自分を責めていれば、ときめかない。変数は、いつも、態度のほうにある。
「足りない」の声は、どこから来るのか
そもそも、なぜ私たちは、こんなにも「足さなきゃ」と焦るのだろう。何も足していない自分を、なぜ、そのままでは不安に感じてしまうのだろう。
その「足りない」の声は、たいてい、自分の内側から自然に湧いたものではない。外から、入ってきたものだ。広告は、「これが足りないから、あなたは不完全だ」と、毎日ささやく。SNSを開けば、何かを足して輝いている誰かが、次々と流れてくる。それを浴びるうちに、「私も、もっと足さないと」という焦りが、自分の声のような顔をして、居座るようになる。「足りない」は、あなたが本当に感じたことではなく、どこかで刷り込まれた、借り物の不安かもしれない。
だとしたら、何も足していないのに美しい日は、その借り物の不安が、たまたま静かだった日、とも言える。外の声に急かされず、「今日の私で、悪くない」と思えた日。足すことを、焦りからではなく、余裕から選べる日。その日のあなたは、「足りない」の声から、少しだけ自由になっていた。
だから、目指すのは、たくさん足すことでも、何も足さないことでもない。「足りない」の声に、運転席を明け渡さないことだ。足すかどうかを、外の声ではなく、あなた自身の機嫌が決める。そのとき、足し算は、ようやく、あなたのものになる。
足し算と、この日は、矛盾しない
ここで、誤解しないでほしい。これは、「だから、足すのはやめよう」「すっぴんが、いちばん」という話では、まったくない。
足すことは、これからも、していい。好きな服を着て、好きな化粧をして、機嫌を上げる。それは、豊かで、楽しいことだ。何も足していない日の美しさを知ったからといって、足すことの価値が、消えるわけではない。むしろ、この二つは、きれいに両立する。
変わるのは、足し算の「意味」だ。「何も足していなくても、私は大丈夫」と知っている人にとって、足すことは、もう「足りない自分を埋める作業」ではない。「今日は、この色の気分だから」と、機嫌にひとつ、彩りを添える遊びになる。足さなければ不安、ではなく、足しても足さなくても、どちらでもいい。その安心の上で、自由に、足したり、足さなかったりする。それが、いちばん軽やかで、美しい足し方だ。
何も足していない日の自分を、美しいと思えること。それは、足すことを、義務から遊びに変える、土台になる。引き算を勧めているのではない。足し算の手前に、「足さなくても大丈夫」という、静かな安心を、置いておこう、というだけの話だ。
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次に、「何も足していないのに、なんかいい日」が来たら。それを、偶然として、通り過ぎないでほしい。
その日、あなたは、自分に、あたたかい態度で接していた。その証拠が、鏡の中の「悪くないな」であり、一日の、ほんの少しの機嫌のよさだった。だから、その日の自分を、よく覚えておいてほしい。何を足したから美しかったのか、ではなく、どんな態度で自分に接していたら、こんな日になったのか。それを、心に、そっと留めておく。
そうすれば、いつか気づく。美しい日は、いい服を買った日ではなく、自分を、少しだけ大切にできた日だったのだ、と。足すものは、いらなかった。必要だったのは、自分への、あたたかい態度、ただそれだけだった。
何も足していないのに美しい日は、あなたが、自分と仲良くいられた日の、別名だ。
あなたにとって、最近の「何も足していないのに、いい日」は、いつだっただろう。その日、あなたは、自分に、どんなふうに接していただろうか。
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