広告の中の「美しさ」に、私はいなかった
駅の広告の前で、三秒だけ立ち止まった
通勤の乗り換え通路。大きな化粧品の広告が貼ってあった。完璧な肌の人が微笑んでいて、横にコピーが添えてある。「その肌、まだ間に合う」。
きれいだな、と思った。その直後に、胸の奥が少しざわついた。間に合う——ということは、私はいま、何かに遅れているのか。
エスカレーターに乗りながら、自分の頬にうっすら意識が向いている。さっきまで、肌のことなんて考えてもいなかったのに。広告の前を通る三秒で、あなたの中に「足りなさ」がひとつ、新しく設置された。
広告は、足りなさを作らないと成立しない
ここに陰謀めいた話はひとつもない。広告は商品を売るためにある。これは単なる仕組みの話だ。
そして商品を売るためには、「いまのあなたには何かが足りない」と感じてもらう必要がある。満ち足りている人は、買わないからだ。だから広告の美しさは、必ず引き算で設計される。まず完成形を見せる。次に、見た人が自分との差分を自動的に計算するように作る。差分が、購買意欲になる。
「まだ間に合う」というコピーが優秀なのは、遅れという概念を三文字で発明しているからだ。あなたは遅れてなどいなかった。広告を見るまで、そのレースは存在していなかった。焦りは、あなたの肌から生まれたのではなく、設計図から生まれた。
売るための基準と、生きるための基準
広告の中の美しさは「売るための基準」でできている。修整された肌、計算された照明、何十枚から選ばれた一枚。それは商品のための舞台装置であって、誰かが実際に生きている顔ではない。広告の中に、生活している人間はいない。だから当然、あなたもそこにはいない。
一方、あなたが実際に生きている世界の美しさは、別の基準で動いている。層①で確認した通りだ。あなたが現実に美しいと感じてきたのは、席を譲る動き、傘の角度、夢中な人の佇まい。生きるための基準は、舞台装置を必要としない。
二つの基準は、用途が違う。問題は混同したときに起きる。売るための基準を、生きるための採点表として持ち帰ってしまったとき、あなたは毎朝、舞台装置と素肌を比べることになる。勝てるはずがない。相手は人間ではないのだから。
広告を楽しむことは、できる
では広告から目を背けて生きるべきか。そうは思わない。きれいな広告を眺めるのは楽しいし、それをきっかけにコスメに出会うこともある。きっかけは何でもいい、最後に鏡の前のときめきで判定すればいい——それがこのメディアの立場だ。
必要なのは遮断ではなく、ラベルの読み方だ。美術館で絵を見るとき、私たちは「この風景と比べて私の部屋は劣っている」とは思わない。作品として見ているからだ。広告も同じように見られる。よくできた作品だな、この焦りは設計されたものだな、と。
作品として見ているかぎり、広告はあなたを採点できない。
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ざわついたら、一行だけ唱える
広告の美しさは売るための基準でできている。あなたの美しさを測る道具として作られたものは、世界にひとつもない。
今度、広告やSNSの前で胸がざわついたら、心の中で一行だけ唱えてみてほしい。
——いまの焦り、設計されたやつだ。
それだけでいい。焦りが消えなくてもいい。出どころに名前がつくだけで、持ち帰るかどうかを自分で選べるようになる。選べるなら、置いて帰れる。
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